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1972年3月にアントニオ猪木が新日本プロレスを旗揚げするが、当時はお金もなく、テレビ局のバックアップもない苦しい船出だった。
また、当時のプロレス団体の生命線ともいえる外国人レスラーの招聘ルートは、既存の日本プロレスと国際プロレスに握られていたため、なんとか猪木の師匠格であるカール・ゴッチの協力こそ取り付けたものの、その他はドランゴ兄弟にブルックリン・キッド、インカ・ペルアーノなど、誰も知らない2流、3流レスラーばかりだった。
そのため、猪木の当時の妻である倍賞美津子が宣伝カーに乗り込みウグイス嬢までやるなど、必死の営業活動を続けたが客足は一向に伸びなかった。やはり日本人vs外国人の対決が主流だった当時のプロレス界において、魅力的な外国人レスラーの存在は必要不可欠なものだったのだ。そんな時に新間氏が知人から紹介されたのが、タイガー・ジェット・シンであった。新間氏はこう言う。
「あるとき、力道山の古い友人で貿易の仕事をしていた人物に『インドに凄いレスラーがいる、そいつを呼ばないか?』と持ちかけられたんですよ。写真を見せてもらったら、ターバンを巻いて、ヒゲをたくわえたハンサムなレスラーが写っていた。もともとインドのプロレスラーというのは、戦前にグレート・ガマという伝説的なレスラーがいたり、さらに力道山と名勝負を繰り広げたダラ・シンなんかもいて、神秘的な魅力を持っていたので、『これは、イケるんじゃないか』と思ったんだよね」
こうしてタイガー・ジェット・シンは、1973年5月に初来日する。“インドの狂える虎”の異名を持ち、長年にわたり悪役外国人レスラーとして、観客の注目を集めた。
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